はじまり(のための説明書)

ぼくは長い文章を書くのも、読むのも、あまり好きではありません。

理由は簡単で、「面倒くさい」からというのと、文章を読むうえで考えるということと、そのぶんだけ長い時間、同じ書き手の言葉と付き合わなければならないという必然性は、必ずしもあるわけではないと、ぼく自身が思っているからです。

 

なら、一言だけパッと見て、そこに何かを感じて、いいなと思ったら持ち帰ったり、つまんないと思ったら、無視してほかの場所に行く。こんな関係のほうが気持ちよく思えます。ときには、長くなることもあるかもしれないけど、それは長くなるだけの何かがあるってことなんでしょう。

 

なので、思いついたことをひたすら断章に近いかたちで書いていきます。はいっ。

 

①昔から(というか今も)、本音を見せるってことが、とても恐ろしいことだと思ってきた。

自分のなかで「本音」というのは、「裸であること」という意味に近い。

じゃあ、裸であることがいやなんですかと聞かれたら、それは少し違う。

問題なのは、裸であることの「真意」みたいなものが、言い当てられてしまうかどうか、という恐ろしさだ。「裸であるということ」は崖っぷちであることに似ている。

 

②もしかしたら、「悩む」という言葉に、みんな「負」のイメージをもってはいないだろうか。

私にとって、「悩む」ということにたいして、苦しみはほとんどないといってもよい。

ただ、「悩む」いうことが、自分のもとに存在しているだけだ。それと言ってしまえば、いつの日からか「悩む」という行為のなかに、「哀しみ」という感情が、自分のもとにないという感覚だ。

 

③絶対性を失うと、あらゆることが面倒くさくなるのは、しょうがないことだ。

 

②(の続き)おそらく「悩む」ことに「負」のイメージを持っている人は、その「悩み」をいかに解いてゆくかということに煩悶し、その解決へと向かおうとする過程で、あらゆる困難に衝突して、自分や自分以外のものに不満をもち、マイナスな感情が浮かんでくる。

 

と、いまここで、約3行にわたって、「悩む」という言葉にたいしての、自分が推測する「負」のイメージを書いたのだけれど、この説明するために、ある場所で立ち止まっている感じが、わたしには何だかわずらわしく思える。

 

 

④歩くように、疾走するように、究極は疾走しつつ叫びながら、思考することができないかとかは、ずっと思ってきた。

3分間のポップミュージックが、エレクトリックな心臓によって産み出されるノイズの轟音が、フィジカルに大切なことを感じさせてくれるということは、音を愛する人間なら、一度は体験したことがあるのではないだろうか。だけど、感じるだけでいいのかと言われれば、違う。

 

⑤何かを本当に愛するためには、過剰に攻撃的でなくてはならないってことは、ぼくはあるんじゃないかと思う。